ぼっちのブログ

シニアだって色々したい。

悔いなし貯金なし、、

やりたいこちは思い立った時にやる


そのためにお金を使う


シニアに皆さんはすでに年金を貰っている事でしょう


厚生年金より国民年金は少ないですが


それなりの金額です


死ぬまで貰えますから


少ないと不平不満もあるが


これだけはどうしようもないから


気持ちを切り替える事


カラダが動くなら働こう


ぼっちは「せどり」で食いつなぎます


元気が一番ですから


健康管理


免疫力を高める食事


工夫することです


そうやって


ぼっちは生きています



長岡の復興に三島億次郎、もっと知られても良い人物です。

ウィキペディアより
文政8年(1825年)、長岡藩士・伊丹市左衛門の二男として、長岡城下の長町に生まれる。最初の名前は鋭次郎。河井継之助や小林虎三郎らは近所の幼なじみであった。また、兄の伊丹政由は、藩校・崇徳館の教授であった山田愛之助の指導で結成された「桶宗」の中心人物であった。そのため、鋭次郎(億二郎)も河井や小林と共にこれに加わった。


弘化元年(1844年)、長岡藩士・川島徳兵衛の養子となる。川島家は30石の微禄であった(後に7石加増)。崇徳館の助教を経て、嘉永2年(1849年)には江戸藩邸勤務となる。江戸在勤中に、佐久間象山の塾に通うようになり、そこで吉田松陰とも親しくなった。


嘉永6年(1853年)にペリーが来航すると、老中であった藩主・牧野忠雅の命で浦賀まで偵察に赴き、状況をありのまま報告するが、その際に提出した意見で忠雅の不興を買い、長岡に帰される。安政6年(1859年)、時の藩主・牧野忠恭(忠雅の養子)に子・鋭橘(後の牧野忠毅)が誕生したため、鋭次郎から億次郎に改名した。


慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際して、当初は新政府軍に抗戦することには反対していた。しかし、慈眼寺での談判が決裂した後、開戦の決意を固めた河井の説得に同意。軍事掛となって山本義路らとともに北越戦争で奮戦し、八丁沖からの長岡城奪還にも参加している。


北越戦争以後


『三島億二郎肖像画』渡辺幽香画(長岡市立中央図書館蔵)
北越戦争直後は改姓改名して、三島宗右衛門と名乗ったこともあったが、明治以後は三島億二郎と改名した。明治2年(1869年)、版籍奉還によって、長岡藩知事となった藩主・牧野忠毅は、牧野頼母、小林虎三郎、三島の3人を藩の大参事に任命した。さらに、明治3年(1870年)の長岡廃藩に伴い、柏崎県大参事に任命された。


その頃、唐物商の岸宇吉邸には、舶来の石油ランプがあった。このランプを囲むようにして、三島と岸を中心に小林、森源三ら士族、大橋佐平ら商人、医師の梛野直、教育者の藤野善蔵らが集まって、町の復興や商業振興について語り合った。やがて、この集まりはランプ会と呼ばれるようになった。


こうしたつながりを支えとして三島は、士族授産のための産物会所(明治3年)・女紅場(明治9年)の創設を推進した。また、明治11年(1878年)には岸宇吉、関矢孫左衛門らと共に、第六十九国立銀行(北越銀行の前身)の創設発起人となったが、この銀行は秩禄処分で士族が得た公債を資本としていた。


また、国漢学校の拡充や長岡洋学校の創設(明治5年(1872年))、育英団体長岡社の創設(明治8年(1875年))といった教育政策、長岡會社病院(明治6年(1873年)、長岡赤十字病院の前身)の開設などの衛生行政にも尽力した。


この間、三島は大区小区制導入によって柏崎県第三大区長、柏崎県廃止により新潟県第十六大区長(明治9年(1876年))、古志郡長(明治12年(1879年))を歴任している。


明治15年(1882年)、古志郡長を辞職した後は北海道開拓に傾注し、明治19年(1886年)には笠原文平、大橋一蔵、関矢孫左衛門、岸宇吉らと北越殖民社を開設した。


私利私欲を求めず、経済の復興・発展を目指したその功績は大きいが、河井・小林ほど知名度は高くない。